Hさんの脳腫瘍

勤務するクリニックの患者さんで、週1回行っている回想法グループにももう何年もほとんど休みなく通い続けてくださったHさん(90代、女性)が、脳腫瘍ができて入院して数か月後、天に召されました。

Hさんは毎週、隣に住む少し歳の離れた妹さんに送り出され、電車を乗り継いでお一人で通って来られていました。
いつも「こうして杖がなくても、自分の足で通って来られることが本当に幸せ」と笑顔で仰っていました。
帰り道、見送っていると信号の点滅で駆け出して行くような、ちょっとせっかちなところがあってハラハラすることもありましたが(笑)。
白髪のショートカットで、白や薄紫の無地のお召し物が多かったのですが、それがとてもよく似合って、気品のある女性でした。
朗らかで、物静かな印象でありながらも本当によく笑う方で、私のくだらない冗談にもいつも大うけしてくださって、何というか、周囲の雰囲気を明るくしてくれる、きらきらとした空気を纏った方でした。
とても慕っていた一番上のお姉さまが入居されている施設に面会に行った後などは、会話ができたことを喜びつつ、「何だか、いじらしくて…」と言って涙され、その姿に打たれたこともありました。
軽度の認知症でしたが、進行は本当に緩やかで、軽度の状態をもう何年も保たれていました。

亡くなった知らせは妹さんからいただきました。
入院中、脳腫瘍があっても本人はずっと「全然痛くない」と言っていたそうです。担当した看護師は「痛いはず」と言って首を傾げたそう。妹さんも不思議がっていましたが、入院中の様子を伺って、私は何だかちょっと合点がいきました。
Hさんは、入院中何かしてもらったときはもちろん、会話の度に、「ありがとうね」「感謝だわ~」と言っていたのだそうです。そして、長い間入院していることを忘れて、ついさっきまで回想法グループに通い、今帰って来たばかりのような口調で話し、「楽しかった」を繰り返していたとのこと。それを聞いて私は、認知症の優しい側面を垣間見た気がしました。認知症が優しくそっとHさんに寄り添っていたイメージです。
そしてHさんの感謝の心。周囲への感謝の思いが、腫瘍にも働きかけたのだと私は思いました。痛みを感じなかっただけでなく、実際に腫瘍も小さくなっていたそうです!

最期まで、痛みに顔を歪ませるようなことなく、穏やかな表情のまま亡くなったと伺って、本当に安心したと同時に、Hさんらしいなと心から思いました。
Hさんのことをあれこれ懐かしく回想しながら、しばらく泣いて、でもこれは、幸せな涙だと思いました。もう会えないことはとても寂しいけれど、これは感動の涙だと。これはHさんからいただいた贈り物の1つでもあると。

Hさん、本当にありがとうございました。さよなら、またいつか!

通りすがりの忘れな草。いつもこの季節、ふと足が止まります。

ひとりカラオケ

認知症の妻を自宅で介護しているAさんは80代後半の男性で、税理士として今もお仕事をされています。妻がデイサービスに行っている間に近くの事務所へ赴き、仕事をするのが1つの気分転換になっているそうです。

認知症の家族とずっと一緒はお互いがストレスになる。こんなふうに別々の時間を過ごすのは大切なこと。

「仕事が好き」と話すAさん。やはり好きなことをして過ごす時間が何よりの気分転換になるでしょうから、いいストレス解消法をお持ちだなと思ったのですが、実はこれだけにとどまりませんでした。出てくる、出てくる・・・。

学生の頃からの麻雀好きで、当時は仲間と夜な夜な明け方までじゃらじゃらやっていたそうですが、「あれのよくないところはね、4人集まらないとできないってことだよ」。
今はなかなか相手が集まらないため、もっぱらケータイゲームだそうです。電車の中などで、読む本がなくなるとスマホで麻雀。相手に不足なしとのこと。

また若い頃から歌も好きでよくカラオケに行っていたというAさん。「ハチトラって知ってる?」ハチ? トラ? ・・・
昭和40年代のカラオケは「8トラ」と呼ばれていたそうで、8トラック・カートリッジテープの略とのこと。4曲入りのテープを機械にガチャッと入れて使用していたようです。
カセットテープよりさらに古い時代ですね。

Aさん、今もカラオケには時々行くそうですが、なんと、カラオケボックスで一人カラオケも!
「おばあさん(妻のこと)に内緒で、仕事の帰りにちょこっと寄る。おばあさんに言うと『そんなところで遊んで!』って怒られるからね(笑)」

そしてカラオケの得点システムを楽しまれています。
「この前は96点だったよ。全国で12位だって」。すごい!
「いやいや、100点なんて人も何人かいるからね。でも誰もあまり歌ってない歌だと、すぐに1位になれるよ」。
何を歌ったんですか?「ミス・コロムビアの『悲しき子守唄』とかね」。
ミス・コロムビアとは主に戦前期に活躍した女性歌手、松原操の別名のようです。

他にも「おばあさんと1日過ごす日曜日の楽しみは畑」とのこと。
日曜日以外は妻はデイサービスや訪問看護といった何かしらのサービスを利用しているため、まるまる1日2人で一緒に過ごすのは日曜日だけだそうです。
家のすぐそばにある畑なので「何かあっておばあさんに呼ばれてもすぐに行ける」。これが大事とのこと。

野菜作りでいい汗をかいているそうですが、先日「収穫した落花生を干している間に全部カラスに持って行かれた!」と。
とても悔しそうでしたが、そんな話もどこか楽し気で。

介護の大変さだけでなく、Aさんの好きなことをたくさん聞けました。
帰って早速『悲しき子守唄』を聴いてみると、この歌をしっとりと歌いあげているAさんの姿が思い浮かびました。

通りすがりのサルスベリも残暑に少々お疲れのようで…