べにさしゆび

もの忘れ外来での神経心理検査の中に、手の指の名前を言っていただくという呼称課題があります。
先日、80代半ばの女性がこの課題で、「親指、人差し指、中指…」と順調に回答できていましたが、薬指のところではたと止まってしまいました。
1つ飛ばして、「これは小指」と答えた後で再び薬指に戻って、「ええと…」と考えています。
なかなか出てこないようだったので、切り上げようかと思った矢先、
「紅差し指(べにさしゆび)」
おもむろにそう答えられたのです。
「そうそう、紅差し指」
その女性は言葉が出てきてほっとされているようでした。

私はというと、その言葉の美しさにはっとすると同時に、昔の女性が薬指でそっと紅を差している姿が目の前に浮かび、うっとりしてしまいました。

忘れ去られそうなこうした日本語を、しっかりと受け継いでいきたいですね。

紅花は故郷山形の花6月に花屋で見かけ部屋に飾りました。

ゆりかごの赤ちゃん

2年ほど前、病院のもの忘れ外来で神経心理検査を取らせていただいたとき、ある女性のしてくださった話がずっと心に残っています。
当時90歳で、エレベーターのない団地の4階でお一人暮らしをされており、白髪のショートカットで銀縁メガネをかけた、上品な印象の方でした。度の強いメガネのせいか、目が少し大きく見えました。
明らかな近時記憶障害と、軽い見当識障害がありましたが、それ以外はしっかりとされていました。

「何か心配なこと、気になることはありませんか?」の質問にはこう答えられました。
「特にないですね。長男と次男の嫁たちが毎日電話かメールをくれる。心配なんでしょうねえ、やっぱり。忙しいから、メールが多いかな。『今、朝ごはんを食べました』とか、一言ですよ、メールっていっても。でもそれでも安心するらしくて」。

そしてどうしてその話になったのか覚えていませんが、こんな話を始めたのです。

「近所のご夫婦が、40代で初めて子どもができて。ご主人が46歳で、奥さんが41歳だったかな。16年目でやっと授かって。そのお子さんを、うちで預かることになったの。『もしも何かあったとしても、決して責任を問うたりしませんから、みてもらえませんか』ってお願いされて。」

唐突に始まった話に初め私は、今のできごとかと思いましたが、思い出話のようです。

「そのとき主人は定年退職したばかりで、何もしないで家にいたから、『お前は一切何もしなくていいからそこにいろ』って私に言って、家の中のことを全部やってくれて。私は、流しにお皿がたまっていても、何があっても、赤ちゃんのそばを離れないで、ずっと見ていたの。毎朝、その子のお父さんが着替えとミルクをゆりかごの中に一緒に入れて預けに来るから、そのゆりかごを、上に(落ちてくるような物は)何もない部屋の隅において、私は一日中ずっと見ていたの。1年以上かな。当時は生まれたばかりの赤ちゃんを預けられるようなところはまだなくて、そのうち、新しい保育所ができたから、それまではうちでずっと。
その子がね、もう30いくつで、家から歩いて10分くらいのところに住んでいるんだけど、私を本当のおばあちゃんのように思っているって言ってくれて…」。

幸せそうに、愛おしそうに、その女性は微笑みました。

いい話だなあと思ってずっと聞いていました。

今年初、セミの抜け殻発見。壁のデコボコにつかまって羽化したようです。

鳥の世界

何回目かの神経心理検査を受けに来られたYさんは95歳の女性ですが、自ら「97歳」と述べられました。昨年94歳のときは「95歳」と答えられていたようなので、Yさんのなかではいつしか少しずつ時間が早く過ぎているようです。

少し会話しただけでイントネーションで感づいて(東北の人だな)、出身を尋ねると案の定。しかも同郷(山形県)でした。

「田舎弁丸出しだからね」。「田舎弁」という言葉すら懐かしい。

検査の書字課題では「毎日が忙しい」と記されました。
「インコを飼っているから、その世話で忙しいの。餌をあげたり、お水を交換したり。お花も好きだからいろいろ世話している」とのこと。

娘さんが3人、息子さんが1人いらっしゃいます。Yさんはかつて今でいう家庭科の教員をしていたそうですが、お子さんのうちのお2人も学校の先生をしていたとのこと。もう定年退職されているそうですが。

お話は流暢でしっかりとされていて、表情も若々しく、とても95歳には見えません。思わずそう述べると、「97歳よ」と訂正されました。

「でも頭はずっと前から老化。ぼうっとしちゃって、鳥の世界になっているから」と笑う。

「仏様に毎日お水をあげて、ごはんをあげて。そのために生きているのかなと思う。『いつ死ぬんだろうね』って娘たちといつも話してます」とさらりと話される。

検査後に、お互い雪国育ちの苦労話などを笑いながらひとしきりしゃべって、待合の娘さんのもとへご案内すると、「そちらから笑い声が聞こえてきて。こんなに明るい声は久しぶりに聞きました」と娘さんも朗らかに話されました。
私も本当に楽しいのです。95歳の方とおしゃべりできるのはとても光栄で幸せなこと。

それにしても「鳥の世界」ってどんななんだろう? しばらく想像を巡らせました。

桜並木は今は涼やかな緑のトンネルです。

うわの空

83歳のAさん(男性)は、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)とMMSEという30点満点の認知症簡易検査でそれぞれ3点、8点でした。これは重度認知症と評価される点数です。
実際にAさんの認知症はかなり進んでいて、語彙も大分少なくなっているようでした。
言葉の意味理解も低下していますが、簡単なやりとりは可能で、ご自身のお誕生日も正しく答えることができました。
ところが年齢を尋ねると、「46」ときっぱり。
<46歳?>「(頷いて)うん」。
(ああ、今その時代にいらっしゃるのですね。あるいはその数字が好きなのかな?)

やりとりしていると、Aさんから時々「うわの空」という言葉が出てきます。
会話のときだけでなく、復唱課題というのがあるのですが、そのときもちょっと長い文章になると、途中で「うわの空」が出てくる。
課題の質問の意味が分からないようなときも、「…うわの空」。Aさんの口ぐせのようです。
その言葉が好きなのかしら? 言った時の感じが心地よい?
Aさんは「うわの」というところにちょっと力を込めて「空」までを心なしゆっくり気持ちよさそうに発音するので、聞いていても何だか心地よい。

「うわの空」。知っている言葉ではありますが、何となく改めて調べてみました。
 出典:デジタル大辞泉(小学館)

1. 他のことに心が奪われて、そのことに注意が向かないこと。また、そのさま。心が浮ついて落ち着かないさま。
2. 天空。空中。そら。
3. あてにならないこと。根拠がなく不確かなこと。また、そのさま。

ちょっと、言い得て妙という感じもしないでもなく。

ところで検査には構成力などをみる模写課題というのがあるのですが、Aさんは重なった五角形や、立方体を、正しく描くことができていました。
また抽象的思考力をみる課題では、例えばリンゴとバナナであれば「果物」のように、似ているところ、共通しているところを答えていただいくのですが、時計と定規の共通点を「はかりもの」とほぼ正しく答えることができました。
30分以上かかる検査に最後まで穏やかに、「うわの空」でなく落ち着いて取り組んでくださいました。

不確かな世界で生きていらっしゃるAさんの、今できていることに少なからず感動します。

石畳の間からも小さな新緑。