Mさんの木と、真夏のワンピース

8月になると思い出す方がいます。

2年近くに渡りカウンセリングを受けられていたMさん(70代、女性)。
後半は体調不良などもあって少し間が空くこともありましたが、ほぼ月1で通って来て下さっていました。

スタイルがよく、おしゃれで粋で、きれいな方でした。
認知症の進行をご自身でも自覚し、「これから先どうなっていくのかすごく不安」といった思いや、同居する娘さんとの関わりにおける強い葛藤、日常生活における戸惑いなど、ときに大きな目に涙をいっぱい溜めて一生懸命お話されるMさんの姿は、幼い少女のように見えることもありました。
頼りなげに見えることはあっても、Mさんは的確に自分の中で起こっていることや様々な思いを言葉にすることができる方でした。

カウンセリングの後半にはいつもバウムテストという心理検査を導入し、1本の木を描いていただき、ときにその絵を見ながら会話を行うこともありました。
バウムテストで描かれた木は、主にその人が自分自身の姿として無意識のうちに感じているものを示し、その人の自己像を表すことが多いと言われています。

Mさんは、毎回同じ木を描かれました。毎日見ている庭の木だそうです。
同じ木といっても毎回描き方も、木の表情も違い、枝もあっちを向いたりこっちを向いたりし、ときに全方向を向いていたり、幹とともに右にだけ大きく傾いていたり、ダンスをしているように見えたりしたこともありました。

集中して黙々と描いた後で、あるいは描きながら語られるMさんの言葉にはいつも、木への(すなわち自分自身への)エールと愛情が感じられました。
「かなり古い木だけど、雨風でこんなに曲がってしまっても折れることなく、がんばっています」
「もう何十年も一緒なんです。栄養とかあげたりしてないのに、がんばって育ってます」
「庭の木が曲がっちゃったんです、重くて。でも折れることはないです。がんばっています」
「上に伸びているのも、下がっているのもある。でも決して折れない…」。

同じ木を迷わず描き続け、「おかげで庭の木をよく見るようになりました」と述べられたことから、木(すなわち自分自身)との対話が進んでいることも窺われました。
「『いつもこの木を描いているのよ』と言っているの」と、娘さんとの会話にも登場しているようでした。

カウンセリング最後の数回は、お一人で通うことが難しくなり、娘さんに付き添われての来院となりました。
他の疾患や体調不良も重なり、認知機能も身体機能もガクッと低下した時期です。
それでもなおMさんは、今の自分が体験している世界を言葉にでき、ユーモアも忘れていません。
感情的に反応していた頃の自分を振り返り、「人は歳を取れば変わるのは無理だと思っていたけど、変わるんだって、この歳になって初めて分かりました」と神妙に述べたかと思えば、「でももしまた何かあったらまた『お願い、助けて』ってここに来ますね」と茶目っ気たっぷりに言って笑いを誘ったこともありました。

残暑厳しい8月のある日、カウンセリングの前に娘さんからの希望で短い面談を行ったのですが、そこでMさんの施設への入所が決まったとの報告を受けました。
さらに予定していた入所日が早まったと。つまり、その日のカウンセリングが最後になるということでした。

Mさんは施設入所の話を何度しても忘れてしまい、その話をする度にMさんだけでなく娘さんも泣いてしまうとのことでしたので、私は少し迷いましたが施設の話はもちろん、これが最後のカウンセリングだということも告げずにMさんとの最後のセッションを行いました。

2ヶ月ぶりのカウンセリングで、それまでも同じくらい間が空いたときはあったのですが、その日初めて、カウンセラーである私の顔を見たAさんに、はて?(この人は誰だっけ?)といった様子がみられました。

それでも話しているうちに次第に感覚や記憶が戻ってきたようでした。
近況については「何の問題もない」と表情穏やかに述べ、「前の悩みは娘との関係だった」「最初の頃は悔しかったこともあったけど、私も悪かったのかなと思う」「早いわね。あっという間だった」「今は穏やかでいられる。自分自身でいられるのはよかったのかな」などと、これまでのカウンセリングを振り返るような表現や、俯瞰的、内省的な表現もみられました。

とはいえお話される内容の大半は非常に分かりにくくなっていましたが、バウムテストではいつも庭の木を描いていたことをすぐに思い出されました。
そして、そのいつもの木を迷うことなく描き始めました。
かなり抽象的となり、とても木には見えませんでしたが、Mさんは「(この木に)何か刺激されるのよね。何かあるんでしょうね。私に見て欲しいのかもしれないし…」とつぶやきながら、楽しそうに筆を動かされました。
そしてさらに、こんなふうに語ったのです。
「木が切られちゃったんだけどね、また小さなこういうのが出ていて……それを挿し木のようにして育てているの」。

「木が切られてしまった」という表現が気になって後から娘さんに確認すると、庭の木は切られていないとのことでした。
描かれた木が、ステージの変化していく自分自身の象徴だとしたら、「切られちゃったんだけど、また小さなこういうの(芽のようなもの)が出ていて、それを挿し木のようにして育てている」という表現は、Mさんの前向きな意思表示であり、強さでしょう。

入所については、意識上は毎回忘れてしまっても、無意識的にはどこかで理解していて、それについてのMさんの答えが、最終回での穏やかさとこのバウムだったのではないか。そんなふうに思いました。

この日はとても暑い日で、Mさんも娘さんも揃って夏らしいノースリーブのワンピースをお召しになっていました。
ウエストに細いベルトのついた、華やかながらもシックなワンピースに、イヤリングなどのアクセサリーもとても品がよく、本当に素敵でした。

そんな2人が手をつないで帰るのを、見送っていたときです。
当時はまだ院内ではマスクの着用をお願いしていたので、うだるような暑さの外へ出て歩き出した娘さんがまずはマスクを外しました。
そして隣のMさんにもマスクを外すよう促しながら、私がまだ見送っていることにふと気づかれたようで、Mさんに何か囁いた後、2人同時にくるりとこちらを振り返られました。
そして、これも2人同時ににこっと笑って、深々とこちらに向かって頭を下げられたので、私も思わず頭を下げ、手を振ると、2人も振り返してくださいました。

その後また手をつなぎ、駅へと向かって歩いて行かれる2人を再び見送りながら、私はまた新たな感動を覚えていました。
2人のお顔がそっくりだったから!

思えば、Mさんはマスクを外したお顔を何度か目にしていましたが、娘さんに関してはマスク姿でしかお会いしたことがなかったのです。
マスクを外した娘さんのお顔が、あまりにもMさんにそっくりで、親子なのだから当たり前といえば当たり前なのでしょうが、なぜかちょっと涙が出そうなほど胸にじんときました。

陽炎の中を歩く2人の姿が映画のワンシーンのように美しく、今も忘れられません。

石畳の隙間の小さな緑がいきいきとしていて、涼を感じました。