父と過ごした最後の3日間

先月、父が亡くなりました。
今回は個人的な話になりますが、父との最後の日々を少し書いてみようと思います。

父が危篤という連絡がきたのは、緊急入院の知らせを受けて2日目の午後でした。
ちょうどそのとき、私は地域の高齢者に向けたちょっとした勉強会のようなものを行っている最中でした。こんな時間に母から電話が入ったことにまず胸騒ぎがしましたが、続いてスマホにメールの着信があり、「お父さんが危篤状態になりました」という文面を目にしたときは本当にドキリとしました。
動揺を隠しつつ、何とか講演を終えてから、スタッフに事情を話し、職場を早退しました。
父はこれまでも何度か入退院することがあったので、正直、こんなに早くこうした状態になるとは思っていませんでしたが、それでも、今回の入院はこれまでとは違うなという予感もありました。だから講演の間もスマホを手の届く位置に置いていたのです。本当は連絡がなければよいと祈りつつ・・・

帰宅後、急いで仕度し、実家の山形へと向かいました。
その日の山形新幹線はなぜか全て満席で、大宮からデッキに立ったままでの帰郷となりました。翌日からの仕事の調整でメールをいくつかした後は、やることもなく、長い長い時間が過ぎました。

父の容態は少し落ち着いたという連絡はもらっていたものの、不安でいっぱいでしたが、深夜の病室で父は、拍子抜けするくらい元気に(と言ったら語弊がありますが、想像以上に明るく)私を迎えてくれました。

翌日も、その翌日も、高流量の酸素投与と医療用麻薬の使用で、一時的とはいえ落ち着いた状態が比較的長く保たれ、普通に会話もでき、母と、妹と、久々に家族4人で、他愛のない話をしながら過ごすことができました。
苦しそうにすることも度々ありましたが、医療の力を借りて父は、いつもの穏やかな表情で、時には冗談を言って私たちを笑わせてくれたりもしました。

それでも少しずつ、父の生命力が小さくなっていくが分かりました。
甘いコーヒー牛乳を、「うまいなあ、ああうまい!」と言ってごくごくと飲んでいた翌日にはもうそれも欲しがらず、口にするのは水だけになり、その翌日には小さな氷の塊だけとなりました。それでもそれをスプーンにのせて口に運ぶと、美味しいと頷いてくれました。その後はほとんど、浅く眠っているような状態となりました。

連日、快晴が続き、8階の病室からは、雪で真っ白になった月山がそれはそれはきれいに見えました。父もそれを喜び目を細めて眺めていました。

私が病室に駆けつけてから4日目の朝、父は静かに旅立ちました。

父と過ごした最後の3日間は、私にとってかけがえのない、生涯忘れることのない時間となりました。
これは父が最期までがんばってくれたからこそ与えられた時間で、父からのプレゼントだったと思っています。危篤になってすぐに逝ってしまっていたら、私は1年以上も帰省しなかったことや、母に介護を任せきりだったことをきっと心から悔いたでしょう。
そんな、さり気ない優しさのある父でした。

父と病室で過ごした間に、私は生まれて初めて父の爪を切り、父の小指の大きいことも初めて知りました。父の手や爪の形も初めてまじまじと見ました。父の寝顔だって、あんなに見つめたことはなかったでしょう。
父の手を握ったのも、小学生の頃、父に手を引かれて見に行った地元のお祭りの日以来だったのではないかと思います。

少しずつ死に向かう父と過ごし、そして最期の瞬間をしっかりと見届け、今は骨だけとなった父に話しかけるとき、私は、死とは人生の最後ではなく、人生の一部なのだと、改めて教えてもらっている気がします。

父の死後、通夜、葬儀、そして様々な手続きと、忙しい日が続き、東京での仕事に戻っても、春が来たことにしばらく気づきませんでした。葬儀を行った場所が雪深い地だったせいもあるかもしれません。

東京では19日、桜の開花発表がありましたね。平年や去年より5日早い発表だったようです。
桜の咲くこの季節は、日本が最も美しく彩られる時期と言っても過言ではないでしょう。
父の四十九日の法要がある頃は、ちょうど山形市内が満開に近づく頃。これも父からの粋なプレゼントかしら?

今度はゆっくりと、新幹線からの車窓を楽しみながら帰りたいと思います。

月山は山形の名峰。病室からもちょうどこんな月山が見えました。